九州旅行2日目.
この日は福岡県の日本海側(筑前地方)を回りました.
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アルバム 130427-0506_九州 |
関門トンネル渡ってすぐに休息をとっての北九州スタート.
私の旅にしてはすごく真っ当なスタート地点.
でも私の旅らしくスタート時間は日の出前.
一番最初に目指すのは皿倉山.
夜景で有名な山で,新日本三大夜景に選ばれている地でもあります.

見てくださいよこの夜景.
露光しすぎと言われようがこの煌々と輝く街灯りは一見の価値ありだと思います.
高速道路が走っているためか早朝夜景でもナトリウム灯が良い色合いを出してくれています.
ただ昨晩もそうだったとおり空気は霞んでいるので向こうまで見抜けないのが残念.
といってもこれはココに限らずですし,そもそも透明度を求められる季節じゃないので仕方ないんですけどね.
水平線の感じからして日の出は拝めそうにないと踏んで空が白み始めたころに撤収.
そのまま福岡を目指しまし向かうは博多湾岸.
福岡の湾岸と言えば元寇防塁.
鎌倉時代末期の元寇襲来に際して築かれた石築地の防壁です.
博多湾のほぼ全域にわたって長大な規模で築かれたことは今さら言わなくてもいいですよね.
そんな防塁も現在は風化と海岸線の進出などによりごく一部を残すのみとなっています.

私が行ったのは生の松原の防塁.
駐車場がなくてうろうろしてしまいましたが,松原を抜けて海へ出ると防塁がしっかりと残されています.
発掘に際して一部復元を行っているようですが,その在りようがよく分かるように展示されていました.

高さは約2.5mで固められており,それが延々と伸びていたとのこと.
正直なところこの石塁ひとつだけで食い止められる物だろうかと思ったりもしているんですが,
それだけ防備の有無は戦いに効いてくるんだろうなとも思うわけでして.
また,短期間で20kmもの長さを固めるにはこれでもかなりの無理なわけで,ほんとよくこれがあったもんだなぁと思わずにはいられないですね.
これの有無でおそらく国史が大きく様変わりしていたことでしょう.
その次は太宰府へと移動.
冬の旅行で太宰府天満宮へはお参りしていたので,その際にいけなかった大野城へと向かいます.
大野城は太宰府の北の守りに置かれた山城です.
朝鮮式の古代山城で山腹に石垣と版築土塁による防壁を周囲数kmの規模でぐるりと囲っています.
そう,前日に行った鬼ノ城と同じ構造で,ついでに築城経緯も年代も同じなんですよね.
というのもこれらの城は663年に倭軍が白村江の戦いに敗れて後大陸からの侵攻に備えて築かれた城.
とくに太宰府は中国大陸・朝鮮半島への玄関口だったので堅い守りがしかれています.

大野城の百間石垣.
写真で見ると分かりにくいかもですが,かなりの勾配のところに長大な石垣が組まれています.
これが山の中を8kmに渡って巡らされていたと言うんですからその規模は途方もないです.

石垣の縁まで上がって見下ろしたら及び腰になりますよ.
とくに1400年前の石垣の上でもありますしね.

同じく大野城の焼米ヶ原というところ.
ここにも土塁跡が残っていて木々もまばらなので太宰府が一望できるスポットになっています.
またここには倉庫の礎石群が残っていて名前の通り炭化米が出土しているそうな.

礎石跡.狭い間隔で礎石が並んでいるので高床式の倉庫があったってことでいいはず.
こういうの見てると歴史建築についても勉強したい気になってきますね.

少し下へ降りると太宰府へと繋がっている道に城門跡があります.
分かる写真が残ってないけど形が崩れ気味ではあるものの,立派な石垣作りの城門でした.
太宰府側の口ということは正門だったということでいいのかな?

一通り見終わって大野城から太宰府へと降りていく途中に今度は戦国時代にあった岩屋城跡があります.
冬の旅行の時は大野城まで行けなくても岩屋城までなら・・・・・・と思っていたりもしましたが,行かなくて良かった.
ほとんど大野城と同じ位置にあるので登ってたらえらいことになってた.
そんな岩屋城は大野城から下る道の途中にあります.
駐車場など無いので路肩に余裕のある場所に車を止めて向かいました.

道からすぐのところに本丸があってそこから太宰府・筑紫野が一望.
中央を九州自動車道が走り抜けており,それに交わるように水城が見えます.
ほんとうに太宰府の地形がはっきり見えてるので太宰府のいい勉強が出来ます.
焼米ヶ原からの景色よりずっと見渡せるので展望としても絶好のスポットですね.
岩屋城を降りて太宰府政庁跡へ.
広さはどうなんだろう,多賀城と同等くらいに感じましたが,柵なんかの防備の違いを考えると比較し辛いかな.
大きな礎石と建物跡が分かりやすく示されています.

政庁跡に立って北を見れば大野城のある四王寺山

南を見れば基肄城のある基山が見えてそれを念頭に太宰府を作られていることが実感出来ます.
そんなことを考えながら資料館で展示を見,ガイドのおっちゃんと談義すること1時間.
続いて水城を見に行きます.

水城は大野城や基肄城と共に太宰府を守っていた土塁.
博多湾からの侵攻に備え,太宰府の北西側の平地に山の端と山の端を繋ぐように築いた版築土塁跡です.
その規模は全長1.2km,幅77m,高さ9mととてつもない規模.
朝に見た元寇防塁と同じようなものではありますが,こちらは元寇のさらに600年前の話ですからね.
大野城基肄城と含めかなり時間をかけて造成したのではないかと思いますが,それだけ太宰府が重要な土地であったことがうかがえる遺構です.
1400年前の土塁遺構となればかなり風化が進んでいるはずなんですが,それでも大きな存在感を持っています.
今でこれなら当時はどれだけ立派な物だったんでしょうね.
水城を見たあとは再び北上.
福岡を抜けて唐津へと向かいます.

虹ノ松原という広大な広大な松林を抜けると見えてくるのが唐津のお城.
海縁の小山にそびえ立っている様はとても絵になります.
といってもこの天守は復興模擬天守なんですけどね.
実際には天守が建っていたことはないらしいです.
でも映えるものは映えるからくやしい.

石垣遺構はちゃんと残っていて大手道は堂々としたもの.
咲き誇るツツジを見ながら登っていくと

階段いっぱいに広がる藤棚.
時期は少し遅めだったみたいですが,これもよく映える.

お,おう.
コンクリート造だと重すぎるから石垣に負担かけないように気を遣うんですよ.
門や櫓もいくつかあったけど復元なのか復興なのかの情報がなさ過ぎるのは残念.
天守内部の展示資料をぐるりと見て最上階へ.

やはり最上階から見下ろすと街の形がよく分かっていいですね.
特に河川と海に囲まれているから,なおさら形がよく分かります.
唐津を後にして向かうは名護屋.
名古屋ではありません名護屋.
玄界灘の北の地ですが,ここには大きな城がありました.
肥前名護屋城は豊臣秀吉の最後期に行った朝鮮出兵の日本側の最前線基地となった城です.
太閤豊臣秀吉はこの地に大規模な城を築きここから指揮を執りました.
また朝鮮へ攻め入る西国大名はもとより,後詰めとして全国の諸大名をここに集わせたため,
ここの周辺数キロには諸大名の陣がいくつも存在しました.
そんなわけで何もなかった土地に突如として10万人を超える人口の街が誕生しました.
そんなことを知るのはいまや大地と石垣くらいでしょうか.
今となっては非常に静かな山地になっているんですが,そこに巨大な石垣以降が残っています.
駐車場へ入る前に向かったのはお城の北側にある山里曲輪.
ちょいと距離があるようなので先に行っておこうかと(決して道を行き過ぎたわけではない)

秀吉の城と言えば必ず出てくる山里曲輪でございます.
軍備のための城ですが,能舞台や茶室といった遊び場を作るのが秀吉の城の特徴と言われています.
それが山里曲輪を通して名を付けられていたことも有名です.
その上がり口なんですが規模もさることながら石垣が固そうな作りをしています.
しかも虎口を幾度も屈曲させて守りを固めていることがうかがえます.
これで曲輪の一角だというのですから呆れます.

駐車場へと入って正面から名護屋城を見学.
大手口から見て坂の上が三の丸.
このときままだ14時台で,厳しいなりにあわよくば平戸城まで行こうと目論んでいたんですが,
この規模を見てすっぱり諦められた瞬間.
名護屋城の見所のひとつは”割られた城”であるところ.
太閤秀吉の城として構えられたものの秀吉亡き後は手に余る城となってしまいます.
江戸時代に入り廃城として扱われますが,万一に使用されないよう,城の破却行為が行われています.
それが”城割り”というもの.
城を破却すると言っても壮大な規模なのでそう簡単に更地や山に返せる訳ではありません.

効率よく使えなくするための手段として石垣の要となっている角の石垣を取り去られています.
角が取り去られていると石垣を容易に修復出来ないのでこんな感じになっています.
さらに唐津城の石材転用や島原の乱以降に重ねての破却も加えられました.
そのため周囲は綺麗に整備されていてもどこか荒廃した雰囲気を漂わせています.

遊撃丸より天守台跡を見上げる.
この辺りの石垣はわずかに名残を残すのみ.
ぐるっと一回りしてから名護屋城博物館へ.
展示もしっかりしていてお城跡とセットだとかなり見応えありましたね.
博物館を出てこの日の行程は終了.

平戸まで行く予定を蹴ったので福岡へ引き返し,念願のよるよるへ向かったのですが,
予約が入っているということで入れなかったのが残念.