120915 東北旅行 8日目 山形編

東北旅行8日目
この日は山形お城めぐり.

アルバム 120908-0916_東北







酒田から庄内平野を南下.
鶴岡にほど近い高舘山のそばに尾浦城があります.
鎌倉期に起こり,庄内地方を押さえていた城です.
平城の鶴岡城(大宝寺城といった)も同時期にあったのですが,こちらが本拠として利用されていたみたい.


尾浦城跡は大山公園として整備されています.
山の上にあるので正面から折れるように坂を登ります.


神社を抜けてさらに階段を上がってくると庄内平野が望めます.


山を切削して作っただけあって所々に曲輪の跡らしきものが残っています.


空堀かな?
公園整備なのか元の城郭地形なのかが分かりにくくありますが,確かに大まかな構成はお城ですね.


一番奥まったところにある東屋.
この奥に高舘山までの散策道(登山道?)があるようなので
もっと奥にも遺構があるのかもしれませんが,探訪はここまで.


公園のメインの道は舗装されていますが,所々に曲輪を走る小道があります.


古峰神社のある広場に展望台があります.
南北に上池下池があり背後に高舘山と固そうな地形.


空堀跡にかかる橋.
公園整備で細部は失われていながらも土塁構造もしっかり見えるのでお城歩きには悪くないかも.

尾浦城を離れて鶴岡へ.


寄るつもりはなかったのに気がついたら鶴岡城址へ.


こっちはしっかり公園整備されているので二重の堀が残っている程度です.
むしろ致道館とかの方が見所なんでしょうが,7時台なので開いているわけがない.
それでも本丸跡は建物がいろいろあってそれっぽい雰囲気を感じるのが悔しい.


鶴岡城址を後にして次は出羽三山神社へ.
出羽三山というと羽黒山,月山,湯殿山と出羽のど真ん中に三つ連なる山々.
昔から山岳信仰の対象として信仰されてきました.
それぞれの山の頂に神社があるのですがその三神を羽黒山で祀ったのが出羽三山神社です.


まずは下から.
ここから羽黒山頂の本殿へと参道が続きます.


鬱蒼とした森に続く石段.
石段約2kmというんですが,山の上まで石段をつけたということなんですかね?
確認する気無いですけど.
私は徒歩五分のところまで参道を入ります.


国宝羽黒山五重塔.
杉の巨木に囲まれているせいでこぢんまりとして見えますが堂々としたもの.


羽黒山というと昔天狗が住んでいたという話がありますね.
羽黒は開山した蜂子皇子を導いたとされる三つ足の烏からとも,端山と黒森山が合わさったものだとも.
黒い羽というのも天狗が住むというのも,興味引かれるところですよね.

さすがに石段2km上がるつもりはないので車で山頂へ上がります.



出羽三山神社本殿へ.


すごくでかくてたまげた.
でかすぎてこれも外れみたい.
関連箇所ではここが最後だったので,本当に見つからなかったことになります.

敷地内の出羽三山歴史博物館を見学.
天狗について何かあるかと思ったんですが,説明版ひとつ分でしたね.


出羽三山を抜けて山形市内へ.
霞城公園へ入り山形城を見学.

山形城は最上氏の本拠.
出羽国といえば最上氏ですが,そんなに広い領土を治めたわけではありません.
戦国期に切り開いた山形地方を中心とした一帯のみ.
後に関ヶ原の役の功績で庄内地方を得るまで四方と戦いが絶えない一帯でした.

城内の駐車場へ停めて城の外へ.
堀の外周をまわります.


城門が立派な石垣で固められています.


が,城門以外は土塁のよう.


別の口から城内へ.
公園として野球場やソフトボール場,野外ステージなどが整備されていて,
内部の遺構は余り残っていないのですがそれでも石垣,土塁遺構はちゃんと.


肝心の本丸は工事中.
本丸部分の発掘調査と史跡公園としての整備を進めているみたいです.
山形城跡は維新後陸軍の駐屯地として利用されました.
なのでその際に城郭建築物は破却,堀は埋め立てられました.
終戦後に霞城公園として整備され,先述のスポーツ関連の施設が多く建てられました.
その後,山形城址が国の史跡として指定され,少しずつ復元されつつあります.


本丸一文字門.
橋が復元されゆくゆくは向こう側の本丸の門も復元する予定とのこと.
しかし本丸側の門は写真資料がなく復元のために古写真募集中.


二の丸東大手門の多聞櫓.
こちらも木造により復元.
堂々とした立派な門です.

多聞櫓の内部も公開されていて,最上氏,山形城関連の展示と復元の様子のパネル展示がしてありました.


立派に復元されています.

すぐそばの最上義光歴史館へ.
最上義光は最上氏を最も大きくした戦国末期の当主.
その縁の品や史料が展示してあります.
ここでやはり目的を果たす.



続いて向かうのは山形城から数km先の小山.
長谷堂城跡です.

ここは知る人ぞ知る奥州の関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)の舞台.
山形へ攻め込んだ直江兼続率いる上杉勢を相手に凌ぎきった城です.
関ヶ原の戦いは豊臣秀頼を蔑ろにする家康の振る舞いに上杉景勝が会津で挙兵.
これを征するためと家康が東進したことによります.

当時の上杉は会津から米沢および庄内までを領する120万石の大大名.
対する最上勢は20余万石.
また,米沢,庄内と二方向から攻められてじりじりと追い詰められていきます.

長谷堂城は最上氏の本拠山形城の目と鼻の先.
慶長五年(1600年)の9月15日,
関ヶ原の戦いと同日にここで行なわれた戦いが長谷堂城の戦いとして知られています.


城址見学の人が多いようで駐車場が綺麗に整備されており
史跡歩きのガイドマップも用意されていました.
長い階段を上がっていき,山の上へと向かいます.


左手の田んぼの向こうの丘に直江兼続の陣があったそうな.


山の尾根より山形城を望む.
すぐそこで,本当に最後の砦であったことが分かります.


山へ近づくと曲輪の跡らしき切削面が見えてきます.


本丸からの眺め.


曲輪跡.


城の一番奥に名前の由来となっている長谷堂があります.


荒れているわけでは無いんですが,
草が結構茂っていて細い道だと分け入らないと行けない場所もあり,
全部見て回れなかったのは残念.
でも長谷堂城の戦いのあった9月15日にこの地をまわれたというのは感慨深くありました.


長谷堂城跡から車で30分.
米沢を目前とした位置に上山城があります.
ここは最上氏の領域で最も南にあった場所.
すなわち上杉氏の領域に最も近かった場所です.
慶長出羽合戦ではここでも激戦が繰り広げられていました.


上山城の天守は鉄筋コンクリートの模擬天守.
かつては名城と歌われた美しい城だったそうですが,幕命により破却され以後質素な城になっていたらしいです.
破却が1692年というのですから当時どのような城だったのかは知る由も無いでしょうね.


模擬天守はほんとうに模擬天守だなーという感想.
むしろ城郭風建築物でもいいかなって思えるくらい.
なにより上山城の遺構がほとんど残っていなくてがっかり.
資料館となっている内部の展示も見ましたけど全くもってがっかり.
なんかとりあえず博物館作りたかったんじゃないのかな~って思えるくらいテーマがなくて荒い.



気を取り直して山形へ戻り,蔵王山へ.
ここも小学生の頃に来たことがあるはずなんです.
というかあの時親の安い一眼レフ使って撮った御釜の写真はお気に入りでした.


御釜自体は覚えているんですが,そこまでの道を全然覚えていない.
断崖の上,ただ遠くから眺めるだけの構造になっているんですが,
何と勘違いしていたのか湖のすぐ近くまで降りていけるような気になっていたので
不本意なここじゃない感に苛まれていました.


山の上で池のそばまで近づけたのってどこの山だったろうか.
勘違いの先が全く思い出せなくて困ってます.


蔵王を後にして宮城県側の白石城へ.
白石城は関ヶ原の戦いの折,伊達氏が上杉氏より奪い取ったお城.
論功行賞御も伊達氏の所領として認められます.
以後一国一城の施策の中特例として仙台藩は仙台城と白石城の二城を許され
片倉影綱より維新まで片倉家のお城として栄えました.


駐車場に到着した頃には日の入り間近.
雲がかかっていたこともあってもう薄暗くなっています.


本丸へ向かうと足場が組まれています.
実は震災の影響で壁漆喰の崩落,亀裂,屋根瓦の落下などの被害がありました.
その修復工事を今年の4月から9月までかけて行なっている最中.

というか修復自体は完了していて足場を外す作業中です.
もう少し時期がずれていたら中も見られたんでしょうがこればかりはどうしようもない.
まぁ,中には入れないと分かっていたからこそ日暮れ間近の時間に訪れたのですけど.


この天守(御三階櫓)は木造による復元.
1995年という木造復元天守ではかなり早い時期のもの.



本丸から二の丸を回ろうとした頃には写真撮るまでもない明るさになってしまったので,
散策だけしてこの日は終了.


いずれまた来ます.


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